たしかに「ここ」にいるという証

ある休日。下の娘に、「お姉ちゃんが朝は勉強をするから、ひとりでリビングでゲームをしていたらいいよ。」と言ったのだけれど、「昼からしてもいい?」と聞いてきた。何でか聞くともじもじしながら「ひとりでやるのは寂しいから。」とぼそり。ゲームをやるにしても、ひとりで遊ぶことが苦手な子もいるんだなぁと、こどもを見ていて思う。僕は幼い頃は、誰かがいないと遊べないというこどもではなかったから、友達と予定が合わなかったとそいても、下の妹がなにかしてしていても関係なく、ひとりで遊んでいたものだ。だから、ひとりではいられないという気持ちをあまり理解できない。だけど、こどもたちと過ごすことが増えてきて、だんだんそういう気持ちを持つこともあるのだなぁということを知るようになった。思い返せば、僕の周りにはひとりで寂しそうにしている人があまりいない。一番近い存在を言えば、愛犬たちくらいなものだろう。愛犬たちはどう考えたって、人間が住む家で、自分で食べ物にもありつくことはできないわけだから、人間の手をかけてあげないと生きてはいけない。散歩に出かけることだってできやしない。それ以前に犬という生き物は、人間以上に仲間意識が強い。オオカミでさえ群れをなして行動するものである。そんな愛犬がいたスペースを、今は愛娘たちが埋めてくれているのではないかとさえ思うことがある。今はいない愛犬たちはどうしているだろうか。自分たちのいたスペースを埋められて怒っているだろうか。それとも安心しているだろうか。

いなくなった存在については、前も書いた気がするのだけれど、愛犬たちがいなくなったからといって、絶対にそのスペースが埋まることはないと思う。なぜかっていうと、愛犬たちがいた証拠は我が家のそこかしこに残されている。噛み付いていたテーブルの足だったり、愛犬たちに使っていた爪切りとか、写真なんかも飾っている。それは、愛犬たちが「ここ」にいたという証拠でもあり、たしかに「ここ」に愛犬たちのスペースはいつまでも残されている証でもある。だから僕は愛犬たちにいつまでも、ご飯と水を毎日お供えしようと思っている。命日にはお墓参りに行く。それは愛犬たちがいたということを忘れていないと示すことでもあるし、それを直接伝えに行くという自分の中でも決まりごとでもある。あぁこう考えてみると、やっぱり自分は犬という存在に癒されているんだなぁ、と愛犬たちが旅立った今になっても思う。


今日も「ここ。」に来てくれてありがとうございます。形はいずれ消えてしまったとしても、思い出はちゃんと残っているものね。


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