日本には、「悲しいことがあった日のことを思い出す日」というものがあるよね。

日本には、「悲しいことがあった日のことを思い出す日」というものがあるよね。でも、悲しいことがあったということを知らないこどもたちにとっては、何のためのサイレンなのかは、さっぱりわからない。それを今の大人たちはどんなふうにして伝えようとしているのだろうと考える。昔はさ、アニメ映画とか、学校の授業の中で教わったものだけど、今の子たちはどうなのだろう。戦争だとか、国同士の争い事とか、戦国時代に起きていたこととか、時代がどんなふうに、誰の行動が影響して、だとか。そういうことに好奇心を持って学ぶような時間って、今の子たちにはあるのだろうか。短縮授業が進んだり、先生の人数が足りていないなんてニュースが流れていたりもするよね。今の子たちってそんなこと知りもしないよね。でも、うちの子はなんとなくだろうけど、そのことに気づいている。先生はいつも忙しそうに、給食も食べずに、書類の整理とか、授業の準備をしているのだそうだ。だから、困っていても話しかけていいのか分からなかったり、こどもたちが先生のお手伝いをするなんてこともよくあるらしい。僕らの頃には、そんなふうに先生を気遣う余裕なんてものもなくてさ、好奇心で満ちていて、好きなようにしゃべって、遊びまわっていたもんだ。それが、どうやら今の子どもたちは僕らが過ごしていた幼少の頃とは少し違っているようだ。なんだか大人な考えを持っているようにも思える。

僕は今でさえ好きなことを仕事にすることができているけれど、好きなことを仕事にできない人たちからすれば、体調が悪かろうと、やる気が無かろうと、関係なく会社に行って仕事をしなくちゃいけないんだ。僕はその人たちからの批判も否定的な声も受け入れる準備を、ここ数年の間に終わらせた。価値観の違いが生じてしまうような環境というのは、例え夫婦の間柄であっても、言い合いになってしまったり、話が合わなくて、気まずい雰囲気になったりもするものだ。だからといって、僕は僕で一番いいと思う方法で食っていくことを決めた。学校の先生であれば、「先生」であることを誰から批判されようが、否定されようが、「先生」として生き続けるよね。こどもたちにとっては、自分が「こども」であることをどれだけ批判されたり否定されても、「こども」として生きるしかない。大人になったと実感するまではね。僕も同じように、「僕」として生きることを決めた。その「僕」はプログラマーだったり、ウェブデザイナーとかライターだったりもする。そんな自由な生き方がこどもの頃からやりたかったからね。好きなことをして生きていたい。その中に最低限の条件として、「食っていく」が含まれているんだと思う。「食っていく」が含まれている生き方をしていると、不思議と批判も否定もされなくなるんだよね。不思議だよね。あんなに批判や否定していた人たちがさ、あいつは「食っていく」ことができていると知ったら、なにも言わなくなるんだよ。認めたというのかな。それでも心の中では、「それでもあいつは」と皮肉るのかな。それでも「僕」は「僕」としてしか生きられないんだ。誰かにとっての「やさしい人」であろうともするし、「強い人」であろうともするだろう。でも一番は、家族が知っているであろう「僕」としてしか、結局僕は生きられないと思うんだよなぁ。


今日も、「ここ。」に来てくれてありがとうございます。「食っていく」ことがわかってくると、ずいぶん自分らしくもいられるものだよ。


%d人のブロガーが「いいね」をつけました。