好奇心

じいちゃんが脳梗塞ではじめて倒れたとき。それはもう本当にダメかと思ってしまった。もうここから入院生活か続いてくのかとか、悪いことばかり考えてしまった。それは現実になってしまって、何度も入退院を繰り返していたのだけれど、3、4年くらいしたら、ようやく骨折だとかの怪我も少なくなって、家で過ごせることが増えてきた。言ってしまえばからだがいうことを聞かなくなってしまったのである。あの好奇心旺盛でいつもなにかしていないと落ち着いていられない性格のじいちゃんが、ほとんどベッドに横たわるようになっていった、その様をたまにみていて、好奇心がなくなっていく悲しさとか、人の感情が変化していくという本当の意味を感じさせた。

それでもね、じいちゃんの好奇心は強いから、病気になんて負けないような行動力を発揮して、自動で移動できる専用の小さな車をうまく操縦して、あちこちに出まわるようになるのだけれど、その様子もまた不思議で。からだが言うことを聞かないわりには、きっと脳がその分を補ってくれているということをちゃんと見せつけてくれているのだ。じいちゃんの好奇心は病気になんてなっていなくて、病気になったのはからだの一部の麻痺にかかっている部分だけ。それ以外はきっと今までのじいちゃんのままなんだろうと思う。

僕もわりと好奇心は強い方、そして父もそうだった気がする。そんなことを妻は逆に心配事として思っているようなのだけれど、たしかに考えてみると、好奇心というものは、ときに危険なことをしでかすものでもある。誰も考えもしないようなことをズカズカと平気な顔をしてやってのけるし、バカだろと思われるようなことでも、なぜか根拠もなく堂々とやってのけたりする。それはきっと好奇心によってコントロールされている脳のせいで、それは例え脳梗塞なんて病気にかかったところで、力が弱まるものでもないのだろうね。若い頃なんかはいっぱい無茶をするし、大人になっても、大人になりきれず、いつまでもこどものままな部分が他の人よりも大きく残されているのは、きっと好奇心のせいなのだろう。だからといって好奇心のことを悪くは思っていない。好奇心がなかったら、僕は成長できていなかっただろうし、ただでさえ人間関係が苦手で、人目を避けたがる性格だったから、本当に信用できる人としか、これまでもつながりを持とうとしなかったし、職場でもよく周りを困らせていたんじゃないかなと振り返ってみても思うことは多々ある。

結果を見れば、好奇心のおかげで今の仕事にたどり着いているわけだけれど、その仕事内容というのも、これまた好奇心のおかげで、いくつもいくつも変化して、できることが増えたり、できないことにまで手をつけたりもしてきたものである。その中でも「食っていけそうだな。」と感じている選りすぐりをチョイスして、「わたしパック」のようなスキルの詰め合わせのようなものをクライアントに提供している。「わたしパック」好奇心の塊だ。誰もできないようなことばかりをして、周りを困らせてきた結果生まれた商品なのです。僕の周りにした人たちが僕の好奇心を変えようとしたのか、しなかったのかは別として、その人たちがいてくれたおかげで、今の僕が作られていった。周囲を見渡せば何かがいつも違っていて、ズレていて、それでも周りがこうなら、自分はこうだ。というふうにしてなぜかいつもそっぽを向いて、人を信用せずに突き進んできた結果が、なぜか不思議と「わたしパック」という商品になって、自分以外の誰かの手に取ってもらえるようになっていったことは、本当にありがたいことで、これまで迷惑をかけてきた人にも、本当はもっと感謝をしなくてはいけないんだろうなぁ、なんて思っている。そして今もそんなふうに迷惑をかけ続けているこどもたちや妻には、頭が上がらない。妻に怒られてもしたときには、こんな「間抜けな自分」なんて早く死んでしまって、「ちゃんとして自分」が生まれてくればいいのに、なんてことをいつも考えているのだ。


今日も「ここ。」に来てくれてありがとうございます。珍しいこと、未知のことに、興味を抱いたり、関心を持つのが好奇心。それが強すぎるとさ、周りの人のことなんて気にしなくなってしまうっていう、そういう悪い部分の癖が出すぎてもいけないよね。


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