オリジナリティーのある「なにか」に気づいている人

同じことを何度も何度も繰り返すことの「良さ」というものはたしかにあって、今の時代なんかはテクノロジーが進化するたびに、過去の作品を作り替えてみたりすれば、昔とはまた違った体験ができるとも考えられていたり、その「良さ」に違った意味を持たせることだってできるようになる。常に人間の想像する力によって作品を生み出してきた宮崎駿と、人が繰り返していくものの、違った視点からの捉え方を模索し続ける庵野秀明の違いのようなものだ。この二人のやっていることは全く違っていて、同じアニメーションを作っているのに、作り方も違えば、発想も全く違う。宮崎駿がどこか昔を感じされる雰囲気を作り出すのとは対照的に、庵野秀明は現代技術を駆使し、常に新しさを追求している。どちらもそれぞれの個性を生かした作品づくりがなされていて、同じ部分などはない。全てがオリジナルなものである。このオリジナルのぶつかり合いがあるから、人と人はもっと違った発想や視点を持てるようになるし、変わらないものと、変わっていくものに気づけるようになる。この二人の作品からなにも影響を受けない人はきっといないだろう。もし影響を受けたことがないなんて人だって、作品名くらいは知っているはずである。その時点でなにかしらの影響は受けているものなのだ。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」と言えば宮崎駿である。「エヴァンゲリオン」と言えば庵野秀明である。両者は共にアニメ映画を背負ってきたクリエイターであり、人の限界を追求し続けてきたクリエイターだ。その後を追いかけるようなクリエイターは、後の世代にいるのだろうか。

オリジナルを追求する人は、よく周囲におかしがられる。偏食であったり、こだわりが強かったり、周囲から理解のされないような生活をしていたり、興味がコロコロ変わったり、かと思えば自分が気になるものには全ての時間を費やしているような、そんな人たちだ。ほんの少しだけ詩人的なことばを使ったら、「オリジナリティーがあるねぇ。」と思われるわけではない。特に最近はAIがどんどん進化しているから、どこまでがオリジナリティーと言えるのかも曖昧になってきている。とはいえ、AIがつくれないものを作ることがオリジナルなのかというと、そうでもないと思う。一つのオンラインメディアを作り上げる中で、普通になにかものづくりをしていて、周囲の人とは何かが違う、そんな人こそオリジナリティーのある「なにか」に気づいている人だろうし、意識的にやろうとして出すものでもないと思う。オリジナルかどうかなんて、そもそもその人の持つ素質とも関係しているのだし、「この人にしかできないこと」こそ、オリジナルであってほしいと思う。誰かの言うことをただ真似することはオリジナルになっていない。だけど、社会というものはそれを阻む場所である。少し先の未来について知っていても、「いや、こうでしょ?」と言えばたちまち否定されたり、批判されたりするものなのである。だから社会の中ではオリジナリティーのある活動がしづらいのかもしれない。だけど、そこから逃げていても、自分にしかできないことなんて、なにひとつ作れやしない。だから自分の追求したいことのために、会社を起こしたり、人との関係を遮断したりする人がいるんだと思う。そう言うことをしなければ、社会という変な場所で、自分の居場所を作れないのだから。自分らしくいてよ、なんて言われようものなら、「じゃあ自分らしくいるね。」と言って行動しはじめるのがのが普通だよね。それを受け入れるかどうかも問題だったりする。


今日も「ここ。」に来てくれてありがとうございます。「自分らしく」とか、「こんなふうに」とか、「普通なら」とか、「世間的には」とか、考えはじめるとキリがないよね。


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