ちゃんと「そこにいる」という凹み。

毎朝起きて愛犬たちのご飯と水を変える。愛犬たちはもういないんだけど、たしかにそこにはいたのだから、そういう習慣は残しておいた方が、僕としては心が落ち着くからそうしている。他の人はどうなのだろう。動物だったり、人であっても、そこにいたという時間は変わらないし、そこにいたということを残すのも、いなくなったあともずっと続いていくことだと思う。その習慣が続けられている限り、いなくなったとしても、たしかにちゃんとまだ「そこにいる」ということになるよね。生きているうちに起こるの凹み。これは習慣という凸む部分によって、ちゃんと自分以外のなにかが、そこにいた、もしくはそこに今でも居続けているという凹みを残す作業でもある。そんなふうに「そこにいる」という時間をちゃんと残していくというのは、人生の中でも、特に日本人にとっては文化として、毎朝仏壇に手を合わせて、居なくなった存在を拝む、という習慣として続けられていく。その習慣がある限り、居なくなった存在も、ちゃんと「そこにいる」という凹みが残っているという現れでもあるんだな。そういうことを僕らはちゃんと習慣にできている限り、誰の存在も忘れられることはないし、誰かとその居なくなった存在に関するはなしをすることがあれば、それはその居なくなった存在であっても、ちゃんと「そこにいる

ということになる。お化けになって出てくるというのではないけれど、意識としてちゃんと頭の中には記憶としてちゃんと「そこにいる」ということだったり、そのスペースを現実的な社会の中でも残っているということは、もう居なくなっている存在にとっても、安心できる居場所になっていくんじゃないだろうか。自分もそういう凹みを残してもらえるような存在になれるようにしなくちゃなぁと思う。


今日も「ここ。」に来てくれてありがとうございます。そんなことを夜、愛妻と買い物にいく途中にはなしていたのでした。

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