「ふつう」のおはなし。

誰かの「ふつう」が、自分にとっての「ふつう」とは限らないよ。もしそれがまかり通るのなら、「じゃあわたしは何のために生きてるの?」ってな感じになるよ。でもそう言われてもさ、ちゃんと答えられる人なんていないのにさぁ。それでも人はそうやって「ふつう」をむやみやたらと使いたがるんだよね。「ふつう」なんて誰もちゃんとした定義なんてものもわかりゃあしないし、少数派の立場に生まれてしまった人は、どうやったって、少数派でしかないんだもの。でも、多数派の人には多数派の意見があることくらいは分かるよ。だから自分は少数派としての「ふつう」を主張する。それで多数派の人たちとぶつかってもさ、それはもう、しょうがないことなんだよ。だからいっそ、「しょうがない」ってさ、あきらめてしまった方が、少数派からすればさ、それだけでだいぶ気がラクになってくるんだよね。じゃないとさ、「ふつう」でいられないんだし。「ふつう」って共有されるものだったっけ?「ふつう」ってそんなに並べておもしろかったっけ?きっと「ふつう」と言うことばを使いすぎる人はさ、酔っ払っちゃってるんだよね。オリジナルなものづくりができる人に対して、「ふつう」を求めることほど、失礼極まりないことはない。これははっきりと言える。もしあなたが「ふつう」をそれほどまで固執して求め続けるのであれば、ものづくりをしている人に仕事を頼んだりするのであれば、「ふつう」とか「誰かのように」なんて言っちゃダメだよ。嫌われるし、あなたが抱える仕事だって、すぐに消えちゃうと思うよ。と言っても、そういう話だって僕が思う「ふつう」なことでしかないんだよ。

つまるところ、「ふつう」っていうのはさ、誰かの「ふつう」と、誰かの「ふつう」がぶつかった時に、衝突せずに「ここはお先にどうぞ」って譲り合えるかどうかで、お互いの「ふつう」を消さずに済むかが決まってくるってことなんじゃないかなぁ。この人の考える「ふつう」を僕は好きです。真似したいです。参考にしたいです。学ばせてほしいです。そして、また自分の「ふつう」の中に、誰かの「ふつう」を混ぜ合わせて、新しい自分だけの「ふつう」を作り上げていって、自分が好きな人たちの「ふつう」と織り交ぜていければさ、僕は最高だと思う。幸せだと思う。戦争も喧嘩も争いもなくなると思う。でもそれを認めないのが人間でもあるんだよなぁ。僕は、戦争も喧嘩も争いも、できればやりたくないし、やる必要はないと思う。だからフリーランスという道を選んで、できるだけそんな場面には出くわさないような環境づくりや、人とのつながりを作れるようにしている。大変な部分はあるけどね。でも、それだけでかなり戦争や喧嘩や争うを生む原因になるものを、取り除くことができるようになったと思うよ。だって誰かに声をかけた瞬間から、「わたしは自由に働く人です。」って宣言してるようなもんだからね。相手からすればさ、「あぁこの人は自由に働く人だから、なに言ってもしょうがないか。」というあきらめがきくのさ。だからといって全員にフリーランスという働き方があっているかというのは、また違っていると思うけど、あらかじめ「しょうがないか」って思わせてしまうことって、結構大事だったりもするんじゃないだろうかと思う。その方が平和だし、自分も毎回余計な影響を受けずに、縛られもせずに、「ふつう」を貫けるからね。


今日も「ここ。」に来てくれてありがとうございます。こんなふうに話すのってさ、ムーミンに出てくるスナフキンとか、ちびのミィになった気分だな。人間って、そうやってたまに、ぼーっとしてそんなことを考えたりもするものだよね。


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