「すっ。」

「全体の文章の流れであったり、こども目線での感じている言葉を大事にしたい。」仕事をしていて、会話のやり取りの中で、そんな話をしたことがある。僕の文章はたまに「分かりにくい」と思われたり、「まわりくどい」と感じさせてしまうことが多いのだ。だけど、そうは言っても、それが僕が思う文章なのだし。と思うのだけれど、そこにはたしかに読者という存在もあって、そこを全て無視していいというわけにもいかない。「でも、」が多くのなるのもあまりいいことではないのだろうけど、自分が読みたい文章や言葉を並べていた方が、自分が読んでいてたのしいし、書いていてもたのしい。つまり、そういう仕事をしていてたのしいと思えるのである。みんなそういう仕事ができていないから、たくさんストレスを感じやすくなったりするのではなかったっけ?と思うのだが、なんだろう。癖と言うかなんというか。そういう人間の悪い習性というものは価値観というしがらみの中で、誰かも一緒に縛られて当然ではないかというふうに感じてしまうことも、よくあることなのだ。

とはいえ、全ての人がそういう考え方で、僕のことをそばろうとしているわけでもないということも知っている。ちゃんと話せばわかってくれる人もたくさんいるし、たのしく仕事ができるようになってからは、ずいぶん気楽に自分の考えを相手に伝えれるようにもなったと思うし、相手もちゃんと自分の考えを伝えてくれる。折り合いがつかなかったときは、それは仕方のないことだし、お互いの考えを傷つけたり、自分の価値観で縛り付けようとは思わない。ただ、一番いいのは、いつだって相手の考えに関心を寄せたり、興味をそそらせれたりすることなんだと思う。それができる人は聞き上手とも言われたり、やさしい人と言われているはずである。自分の価値観ばかりを押し付けたりするのではなく、相手の考えを尊重したり、敬ったりしつつも、自然と自分らしくいれたらいいのだけれどなぁといつも思う。だけど、何かを成し遂げる人って、相手のことなんて考えずにズカズカと前に突き進んでもいるんだよなぁ。それって誰もいないような広い荒地みたいなところで、ボロボロの素材を集めて、自分だけのレールを作っているようなものでもあると思う。そういうことができる人は、きっと相手のことなんか気にしていないし、(いや、それでもやさしくて、涙もろい人だっていると思う。)自分のレールの敷き方を知っているから、誰からレールの敷き方に困った時なんかは、「すっ。」と手を差し伸べれたりとすると思うんだよなぁ。でもやはり世間一般的には、まずは相手のことに関心を持つということがなければ、人間関係だったり、コミュニケーションはうまくいかないんだろうなぁ。


今日も「ここ。」にきてくれてありがとうございます。

しあわせは 歩いてこない

だから歩いて ゆくんだね

一日一歩 三日で三歩

三歩進んで 二歩さがる

人生は ワン・ツー・パンチ

汗かき べそかき 歩こうよ

あなたのつけた 足あとにゃ

きれいな花が 咲くでしょう

歳をとるとこの唄のことばが見にしみるなぁ。


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